釣り天国
釣りの師匠が書いた三宅島派遣記です。

        • -

「災害は忘れた頃にやっていくる」というが、最近は忘れる前に次がくるような気がする。
昨年は年間で10を越える台風の上陸、10月の中越地震、年末にはインドネシアの大津波と、次から次にデカイ災害が発生し、それに関連した被災情報が連日報道され、直ちに救助活動や義捐金、復興活動が開始されている。が、日本国内でありながら、災害発生から実に4年半の間、インフラの復旧はともかく、一般の復興が全く進んでいない地域がある。
伊豆七島・三宅島である。
東京都に所属するこの島、2000年7月に活火山である雄山が噴火。その火山活動で二酸化硫黄を主成分とする有毒な火山性ガス濃度が高まった為に、東京都は全島民に対し、島外退去命令を発動。同年9月に島民3800人全員が島から非難する事態となった。
それから4年。その苦労を殆ど報道されることも無いまま、東京都職員と三宅村役場、内地の建設会社から派遣された作業員の、不自由な作業・生活環境の中、ガスマスクを装着しての復旧・維持補修作業に尽力、火山性ガスろ過装置を備えた宿舎を建設。島民の帰島に備えて、被害を受けた道路や橋を補修し、港湾設備を維持していたのである。そして2005年2月1日、火山性ガスの噴出も小康状態になり、三宅島島民に対する避難命令が解除されたのである。
さて、私の仕事は学校の校庭や野球・サッカーを始めとする運動施設整備の専門会社、いわゆる“グランド屋”である。そして社内の先輩(かなりの年配でもある。)が、以前から伊豆七島内にあるグランドのかなりの数を手がけていたのである。これを聞いた私の心は鋭く反応した。
普段はテキトーな生活を送っている私だが「義を見てせざるは勇なきなり」と、不憫な生活を送っている三宅島の方々の力に、微力ながらお手伝いを志願・・・ならばカッコイイのだが、そんな高尚な動機は全然無いのである。微塵にもないのである。断っておくが避難指示解除と島民帰島に際しての復興支援派遣に自ら志願したのは本当である。では何故、三宅島に行くのか?釣りである。
私の趣味は釣り。私が5歳の時に母方の祖父からフナ釣りの手ほどきを受けてから早32年、途中で竿を握らない時期(違うサオは握っていた)もあったが、やはり釣りの楽しさは忘れられず、人よりちょっぴり釣りが好きなので、今では晴れて“釣りキチ”と呼ばれてしまうに至っているのである。
確かに三宅島は火山の影響で危険地帯だが、ともかく注意すれば危険が少ない状態にまでなったのである。それまでは復旧作業やそれに伴う輸送作業、特殊な事情がない限りは島への上陸すら許可されなかった状態なのである。当然、三宅島に渡る釣り客などいなかったのである。もちろん三宅島近海で漁は行われているだろうし、テレビは首都圏と同じように視聴できるが、それ以外は娯楽どころか新聞すら1日遅れ、週刊誌など注文しておかないと届かない状態、女性の姿ですら2004年11月に先行帰島した中年の女性を売店で見かける程度であるから、島内最大の娯楽といえば釣り。先遣作業員たちのなかでも釣り好きな人たちはいるだろうから、その人たちが釣りをやっている程度で、魚もスレて(警戒心)いない。多分、他の伊豆諸島の中で一番“ピュアな”釣り場を持つ島であろう。そんな島に仕事とは言え、旅費・宿泊費を会社が持ってくれて行かれるのである。
さらに“グランド屋”は朝8時から夕方5時までの作業時間帯はもちろん、作業終了後の深夜から明け方にかけて降雨があった当日とその翌日は、余程のことが無い限り作業をしない。これは他の土木作業は雨が土壌に染込むよりも深い地層、限られた範囲で作業を行うのに対し、グランド屋は水分を染込みやすい地面の表層を扱い、しかも地面の表層は、風化してしまった土や比重の関係で沈んでしまった微粒子状の土が存在するので、そこを重機が走り回ると、水と粉体をこねくり回した状態となり、文字通りに「ぬかるみ」になって余計に手間がかかるので、あえて作業をしないのである。つまり、「夕べは雨が降っていたが目が覚めたら晴れているから仕事」の一般土方と違い「(雨でズブズブだから)ダメだよ。仕事になんねぇ。」と作業中止の判断が下されるのである。つまり一般土木作業員よりも休みが多い(日給月給であるから休めば収入が減る)のである。すなわち、フトコロは痛いが平日に他の皆さんが汗水たらして働いているときにハナ歌交じりで釣行できるのである。そんな職業についている男が給料をもらって、会社の金でピュアな釣り場がある三宅島に派遣されるのである。
これはオイシイ。
実は2004年の11月、ニュースで年明けの2月に避難命令が解除されて島民が島へ帰ることができる。という報道がなされ、その時から私は事あるごとにN橋さん(会社の先輩。伊豆七島でのグランド工事のスペシャリスト。)に「三宅島の避難命令が解除になるんですよね。どうせ学校とかのグランド復旧とかが入るんだから、行きたいですよ。」と言っておいたのである。この時点で私の所属する会社に、三宅島の復旧工事に関する打診があったわけではない。そんな話は微塵にも出ていなかった。それならば何故、私がそんなことを言い出したのか。単純に過去の実績なのである。
このN橋さん、離島や遠隔地などの現場があると、必ず派遣されるのだ。そして私とナゼかウマが合うのである。地続きであると当然のように私とN橋さん、セットで飛ばされるのである。つまり所属会社が三宅島の仕事を取れば自動的にN橋さんは飛ばされ・・・もとい、派遣されるのは必至である。一人で派遣しても他の仕事があるので他にも派遣せざるを得ない。この時期の土木業界は年度末ともあって繁忙期なので誰を派遣するかでモメる。しかし、N橋さんは三宅島派遣の打診を受けた際、社長に逆打診してくれていたのだ。私が釣り好きで、三宅島に行きたいといっていたのを覚えていてくれたのである。
2005年が明け、しばらくした頃だった。S木と横浜・花の木にあるお好み焼き屋で食事をしていると、ふいに私の携帯電話が鳴り、出てみるとN橋さんだった。
「おいKロちゃん、三宅島に行くことになったけどアンタ、前に三宅島に行けるなら行きたいって言ってたよな?」
「へ?・・・あぁ、はい。・・・行くんですか?」
「おお。三宅高校の仕事を取った、っていうからな。社長から行けって言われたんだがな、一人じゃ無理だって伝えて、誰を連れて行く?って話になったから、じゃあKロちゃんを連れて行くって頼んでおいたから、おって社長から話があると思う。」
それを聞いた私は了解、感謝を告げた。そして後日、社長から三宅島行きの打診と正式な出張業務命令が下されたのである。何をするにしても道具が必要となる。私は社長から三宅島派遣を打診された段階で派遣の為の用意に奔走した。
避難解除になったとはいえ、商店など営業しているわけではないのだ。それもそのはず、帰島する島民達と同じ船で三宅島に渡るのである。うっかり忘れたり足りなくなったりしても補充が利かない。できたとしても派遣後期にようやっとというのが実情だろう。私は有り金叩いて針・仕掛け・糸・オモリ・集魚材と、考えられる全ての釣具を買いあさった。以前から欲しかった度付きのサングラスも新調した。おかげで現場での昼食をとる金が無くなり、社長から支度金として給料の前借りをした。仕事の道具としては半長靴とスニーカーの安全靴を買った。あとのこまごましたモノは全て100円ショップで買い揃えた。
「半ばモノ書きみたいなヤツなんだから、コレ貸してやるよ。ヒマがあったら、コレで向こうの様子を書いてろよ。」
と、私の三宅島派遣を知ったS木が、手持ちのノートパソコンの中から苔むして茸が生えそうなものをOSを入れ替え、何のケーブルを繋げても直ちにオンライン出来るようにセットして貸してくれた。
しかし、何やら想定外のことが起こったらしく、私はこのマシンから通信することはなかった。そしてここで、疑問が浮かんだ。
果たして三宅島に渡って、エサを入手できるのだろうか?
私は三宅島派遣の報告をすると共に、昔の話でも構わないからとK野さん(土方の師匠。何かあると口より早く、スコップが飛んでくる。)に電話をかけてみた。
このK野さん、ありがたいことに三宅島出身で、大の磯釣り師。いや、磯釣り師なんてもんではない。磯ファイターと呼んだほうが良いだろう。この人、三浦半島伊豆半島はもとより、伊豆七島を全部制覇した上にちょっとでも時間があれば熱海から船に乗り込み、初島に渡って、”そんなに釣ってどうするんです?”と言いたくなるほど釣ってくるのである。
私は、エサ(オキアミ)が手に入らなかったらどうすれば良いのか、率直に質問してみた。すると予想も出来ないような答えが返ってきた。
「そんなときはムシ、使うんだよ。」
「へ?ムシ?・・・ムシってサナギか何かですか?」
「バカ。海に行きゃいっぱいいんじゃねぇかよ、ゴキブリみたいのが。」
「・・・それって・・・フナムシのことですか?」
「そうだよ。魚肉ソーセージ剥いて、網(タマネギを入れる網袋)ん中に入れるべ?そんで晩のうちに海岸ぺりに置いときゃ、袋一杯取れるからよ。それをバケツに入れて潰して撒くんだよ。」
「でも、コマセはそれでいいとして、付けエサはどうするんで?」
「丸ごと(フナムシを)2匹かけするんだ。」
まさに驚愕の答えだった。確かにフナムシはエビやカニなどと同じく甲殻類。海に落ちたり、泳いでいるフナムシを魚が食うこともあるだろう。それにフナムシをエサとして釣る釣り方も存在する。が、それは口のデカイ魚を釣る場合で、メジナが釣れるとは想像できない。
もっとも、K野さんが言うのだから間違いはないだろう。試してみてダメだったら内地から送ってもらうしかない。
針は大小様々200本買った。ハリスはナイロフロロカーボン合わせて全長1kmを超えるほど用意した。オモリは全部で5kgを超える。集魚材は24kgのオキアミに使用できるだけ買い込んだ。
竿は磯竿2本、おなじみのアジビシ竿、ワラサ竿、マダイ竿遠投竿、チョイ釣り竿と7本。リールはスピニングが3機、両軸受けが電動を含めて3機の計6機。仕掛けはチョイ投げからカワハギ、マダイ・ワラサまで計50パック、100本はある。書いていて思うが我ながらバカである。この他、サニー缶・アンドン・金カゴ(共にコマセ餌を入れる容器)、ロッドキーパー、サイズが違う各種テンビン、フローティングベスト、雨具、玉網等を梱包すると、背負子に縛ったバッカンとクーラーバックにロッドケース、キャベツが満杯に入れられてくるダンボール箱に一杯になった。
これらの荷物と着替えなどを持ってフェリーに乗るのは、さすがに不謹慎であるだろう。場合によっては「何しに行くんだ」と咎められてしまうかも知れない。それに着替えと仕事の道具を詰めたバックだけでも、アメリカ陸軍が使っているザックとスポーツバック一杯になるのである。それに竹芝桟橋までは電車による移動なので、物理的に無理である。私の道具と同行派遣されるN橋さんの道具は、現場作業で使う資機材と共に、3日後に別便でやってくるY崎さんのトラックに積み込んで、運んでもらうことになった。
出発当日の夕方、会社の資機材置き場に私物を運び、資機材と共に積み込んでもらうものに“三宅行き”と書いたガムテープをベタベタと貼り付け、社長と軽い打ち合わせをしたのだが、社長もN橋さんも私の膨大な釣り道具を見て「何しに行くんだ?釣りか?」としごくもっともな質問を私にぶつけるのだ。確かに自分でもちょっと多いかな?とか思いながら帰宅する。あとは船に持ち込む着替えなど荷物を持って家を出るだけである。