さらば都会のネオン
同行のN橋さんとの待ち合わせ時刻は21時30分。夕刻に仕事の道具を用意した折に“友達が見送りに飲ませてくれる”と伝えてあるが、それでも船の出る時間は決まっているのである。待ち合わせ時刻から5分やそこいら遅れるならばともかく、15分を越えれば、やはり心配するだろう。通常の集合時間でも、常に早く来る人である。このN橋さんも酒飲み、しかもものすごく熱くした熱燗好きである。N橋さんからは事前に“新橋で飲むなら、そこいらの酒屋かコンビニで『燗番娘』を3本くらい買ってきてくれ”と頼まれていた。
『燗番娘』とは、水と生石灰を反応させることによって発生する熱を利用した、酒を燗付けする機能を備えた酒器に入った酒である。ちなみに数年前の冬、ヒラメを釣りに行ったときに仕立て船だったので、小雨振る中を嫌々船に乗り、これを飲んだが、ちっとも熱燗にはならなかった。やはり、ガスなり湯煎なりで暖めたものには敵わないようである。
新橋駅烏森口横のコインロッカーに放り込んだ大荷物を取り出してJRのガード下から、明日は早朝より仕事になるから見送りは出来ない、といっていたS木も交え、私とI井君とでタクシーに乗り込み、竹芝桟橋に到着した。
聞けば三宅島に行くには、ガスマスクの所持・常時携帯が義務付けられているという。どこで購入するのかといえば、竹芝桟橋売店で売っているという。これは自己防衛の範疇である。ついでにN橋さんから言われている「明日の朝に食べる、自分の分の食い物を用意しておけ。」といわれていたので、ガスマスクと菓子パンを3つ。それに船の中で飲む分も合わせて2リットルのミネラルウォーターを買う。代金を支払い、店の外に出るとS木・I井君のデブ2人にガスマスクを装着した姿を撮影された。
やがて21時30分、待ち合わせの時間である。同時にこの二人としばしの別れでもある。
「じゃあ行くわ。見送りありがとう。」
「おう、気をつけてな。」
「がんばって下さいね。向こうで嫁さん、見つけてくださいよ。」
私は見送りの礼を告げ、振り向かずに待合室へと向かった。幸いなことにN橋さんとは苦労なく合流できて、これから出発する旨を両親・兄夫婦・親戚と連絡しようと電波状況のよい広場に出、まずは実兄に電話をした。
「三宅島かぁ・・・ガスが心配だが、まあお前なら大丈夫だろう。釣りでもやって、気をつけて行って来い。」
「義姉さんにもよろしく言っておいてくれ。」
知らない人が聞いたら何て薄情な、と思うかもしれない。だが男兄弟である。この兄貴にして、こちらも弟であるから兄の素っ気無い優しさというのは素直に感じる。へんに激励されても困る。コレくらいが丁度よいのだろう。
続いて母親に電話。これから出航の旨を伝える。
「大丈夫だと思うけど何が起こるかわからないんだから、イザとなったら、例え他人を海に突き落としてでも何をしても、どんなことをしても帰ってきなさい。」
私は今年(2005年9月)で37歳になる。母親は66歳。母親にとって自分の腹を痛めて生んだ子供というのは、いつまでも小さい姿のままなのだろう。仕事の成否よりも私の身の安全を案じている、そのままの感情が出た台詞である。特に私の両親は化学屋であるので、二酸化硫黄ガスの危険度は熟知している。そこに極めてデキの悪いとは言え、息子が行くというのだから心配だろう。島に着いたら連絡する、と告げて電話を切る。続いて親父である。
「何かと不自由も苦労もあるだろうが、どんな所に行っても楽しくやることだ。お前なら釣りでも何でもやれるだろうから、せいぜい楽しんで来い。」
明らかに楽観的な親父であるが私はこの言葉、というよりも、はるか北海道は函館から聞こえてくる親父の声を聞いて、子供なのだということを嫌というほど思い知った。
親父の声を聞いた途端に得体の知れない、猛烈な恐怖心が襲った。笑うなら笑ってもらって結構。軽い気持ちで三宅島行きを志願したが、ここにきて恐怖心のあまり、しゃべることができない、泣き出すのを堪えるのに声にならないのだ。
「・・・なんか・・・恐っかなくてさぁ・・・。」
「そりゃそうだろう。だけど、被災している三宅島に行くなんていう、めったに体験できないことを見たり触れたりできるんだ。いくら亜硫酸ガスったって、そう簡単に死にゃしないよ。せっかくなんだから、しっかりとそこを体験して、楽しんで来い。」
ここに至り、私は悟った。戦前に生まれ、物心着いたときに満州から引き上げてきて、日本の高度成長時代の荒波に揉まれ、会社が倒産したり、不況のド真中の時代に先行きが全く解らない業種に身を投じて、サラリーマン生活の最後に雇われとはいえ、独立法人の社長まで登りつめた人である。私が逆立ちどころか横になっても敵わない人なのである。その人が『余計なことは考えないで、しっかりと体験してこい。』と言っているのである。一体、これ以上の激励の言葉があるのだろうか?
「はい。いってきます。」
これ以外の言葉は、もう私の口から出ることはなかった。親父は私に「見て触れて感じて、考えて、それを楽しめ。」といっているのである。私は親父から写真撮影を教わっている。四季の移り変わりから各種学校行事、友人・親戚縁者から頼まれて撮影をする結婚式はもとより、祖父の葬式から地域の祭りまで、ありとあらえる行事の記録写真を待ったなし、見たまんまの感情移入なしで記録撮影することを叩き込まれた。カメラは持っていけない(ガスが怖い)が、見たままでよければ文章は書ける。映像が親父譲りなら、文章は詩や作文、朗読に長けていた御袋譲りである。思う存分に”楽しむことにしよう”と決意した。

親戚、数人の友人に電話を掛け終わり、N橋さんとの待ち合わせ場所に戻る。N橋さんの他、同行するI嵐さん、九州・熊本は八代から遠路遥々お越しいただいた、今回の現場監督であるM本さんが既に合流していた。お互いに自己紹介しあい、世間話などをしながら乗船を待つ。
辺りを見回すと、やはり考えることは同じなのだろう、既に釣り道具を担いで乗船を待っている人もいる。人事とはいえ、私も同じ釣り人である。やはり三宅島で釣りをしようと企んでいるおとこである。フェリーは三宅島の後、御蔵島八丈島と向かうのであるから、ひょっとしたらそちらの島に行く人なのかもしれない。がしかし、三宅島に帰島が始まる日に同じ船に釣り道具を担いで乗り込むというのはあまりにも不謹慎である。少しは考えろと言いたい。
待合ロビーから乗船口までウロチョロとしてみると、乗船口に向かう通路右側にあるラウンジなのかレストランなのかの窓に、店内の視界を遮るように目隠し状の日除けなのか、カーテン(?)が下げられている。小腹が減っていた私は、サンドイッチでもあれば、と思い、カーテンの隙間からチラリと中を覗いた。
そこには狭そうなテーブルに、いかにも会社の総務部の人か役所の窓口にいるような役人風のオッサンが3人。そのテーブルの一隅(こう書いていいのだろうか?)に、ニュース番組、特にアジア諸国の政治問題でその発言を要約すると“うるせぇ!オレのいる国に何か文句があんのか!?”といっている人。この人が日本の首相になったら絶対に○国とか北○○とかと国交正常化どころか国交断絶を招く発言をする人が、状況からして木っ端役人風のオヤジ達とコーヒーを飲みながら談笑している。誰あろう、石原慎太郎都知事である。
ガラス越しに見る石原都知事は案外と小柄な好々爺である。終始ニコニコとして、時折ガハハと大笑いをしている。今回は都知事としての立場上、行政区分が東京都に属する三宅島三宅村の避難解除、4年6ヶ月ぶりの島民帰島に際して、島民の見送りは不可欠な行動なんだろう。事実、フェリーへの乗り込みの時には石原都知事、タラップの一番船体寄りとは言わないが、船体に極めて近い位置で我々防災関係者(どうやらこれが我々復旧作業員の正式名称らしい。)も帰島住民にでも分け隔てなく、笑顔と拍手で送ってくれた。
テレビなどで報道されていて記憶に新しいと思うが、桟橋には帰島のセレモニーということで、太鼓の演奏が行われ、見送りの人々の激励の声を受けつつ、島民や報道関係者、我々防災関係者が粛々と乗り込んでいく。
我々を三宅島へと運ぶ船は東海汽船所属『さるびあ丸』である。全長120.5m、全幅15.2mで総排水トンは4965トン。最盛期には2044人の旅客を乗せ、東京湾内はともかくとして、観音崎を越え浦賀水道を抜けるとその船体を時速20ノットに加速して三宅島へ直行する。今日は到着地の波が穏やかならば接岸するという“条件付出航”らしい。聞けば今日の波は6メートルという。これを聞いても私は何の心配もしていなかった。
私がいつも乗っている釣り船は15トンである。モロに漁船を想像してもらえば良い。そんな船で2mを越える波の海で一日中釣りをするのである。吹き曝しの上に便所は海に直接落下だわ、飲み物は持ち込まなければならないわ、寝転んでも硬い甲板か、あっても薄いスポンジの座布団の上に横たわるかである。その船の大ミヨシ(船の一番先端)でワンカップを飲みながらチキンカツ弁当を食うことができる私である。船酔いしないことには自信がある。それに比べれば排水量で300倍以上あるし、フカフカとは言えないが布団もある。波しぶきを被ることもないし、酒や温かい食事もとることができる状態で何を心配するのか。揺れと言ったって釣り舟のそれに比べればオフロードバイクと揺り篭くらいの差があろう。
二等寝台に席を取った我々は、自分の寝台に早速陣取り、私を除く船に弱い3人は早々に寝る体制に入った。船酔い対策には出航前に酒か船酔い防止の薬を飲んで寝てしまうに限る。それが出来なければ乗船前に消化の良いものを食べて、睡眠を十分にとって、船と身体の接触面積をできるだけ大きく取っておけば、かなりの確立で防ぐことができる。
22時33分、我々を乗せた“さるびあ丸”は銅鑼の音が鳴り響き、石原都知事を始めとする都の職員、支援団体の人たちの盛大な見送りを受けつつ、竹芝桟橋を離れた。
私は船の右舷デッキに出て、これからしばらくは見られない東京の夜景というものを見ることにした。普段は何の気なしに見ている光景であるし、高速道路の上から見ても何の感慨も沸かないが、今日はナゼか感傷的である。レインボーブリッジもウラというか下から見上げるとライトアップされている様がとてもキレイである。
高校の修学旅行で宮崎・日向からフェリーで川崎まで帰ってくるときに東京湾に入ると人が歩くくらいの速度で航行した記憶があったが、この“さるびあ丸”は結構な速度で航行している。夜間で他に航行している船舶がいないからだろうか、感覚で申し訳ないが時速15ノット(約時速27キロ)くらいではないだろうか?煌びやかなネオンを見ながら、私はまだ届くうちにと、見送ってくれたS木とI井君に出航を知らせるメールを送り、寝台に戻った。
寝台に横たわり、寝酒を飲みながら用意してきた文庫本を読んでいると、船体の動揺が大きくなってきた。どうやら観音崎を越えて、外洋の波浪を受け始めたらしい。眠りに落ちながらそんなことを考えていると、早くも船酔いで嘔吐する人のうめき声が聞こえてきた。