潮と硫黄と錆びの島
午前4時50分、島民を乗せた“さるびあ丸”は三宅島東の沖、2キロに達した。それと同時に船内放送が入る。
「ご乗船のお客様、本船は間もなく、三宅島に到着いたします。三宅島で下船のお客様はそろそろご準備下さい。」
私の場合は財布と免許をしまい、携帯を片付け、ジャンバーを着れば終わりである。身支度を整え、トイレに向かう。船のローリング(横揺れ)が大きい。普段から“三半規管がブッ壊れている”と言われる私である。船酔いも何も無いのだが、歩くのにやや難儀する。
私は熟睡していたので気がつかなかったが、航行中は相当に揺れたらしい。三々五々集合した同行のN橋さん・I嵐さん・M本さんは全く眠れなかったらしい。再びアナウンスが入る。
「下船の順番をお知らせいたします。下船は報道関係の方、続きまして防災作業関係者の方、次に三宅村村長ならびに島民の方、最後に副都知事ならびに東京都職員の方々の順です。」
午前4時57分、“さるびあ丸”は三宅島・三池港に着岸した。報道陣が我先に下りていく。島民が帰ってきて、下船する様子を撮影するためである。我々が島民よりも先に降ろされるのは、これらのシーンを撮影するのにジャマだからだ。
どうせ報道関係者なぞ先乗りしているし、1週間もしたら島から立ち去るのである。それよりも一日千秋の思いで帰島を待ち望んでいた島民を真っ先に降ろしてやらないのか?我々作業員なぞ一番最後でも構わないのである。そんなコトを話していると、下船の順番が来た。下船口に行くと船の係員が口々に“がんばって下さい。”“お疲れ様です。”といいながら、乗船券を集めている。東京消防庁・警視庁機動隊の隊員たちに見守られる中、揺れるタラップを降り、三池港の桟橋を踏んだ。
ついに三宅島に到着したのである。潮の香りを押しのけて、さっきから漂っていた硫黄の臭いが鼻をつく。日の出前で辺りはまだ暗いが、港の照明、セレモニーや報道機関の照明で様子がよくわかる。港周辺には錆びていない物がない。道路脇にある自動車など、屋根と言わずボンネットと言わず潮風とガスの影響だろうか、腐食して穴が開いたり錆びを噴いて茶色い縞模様がついている。
風が強くて寒いので、フェリーの待合室に向かうと、ドアも手すりもボロボロ。鉄だろうがアルミだろうが一様に酸化していて錆び、臭いも酷い。トイレに行っても水道の蛇口が緑黒い緑青を噴いている。呼吸が苦しいと言う感じはないが、もはや温泉地の匂いなどと言っていられるレベルではない。目はショボショボする程度だが、咽喉の奥がヒリヒリとしてくる。同時に口の中が酸っぱく、いがらっぽくなってくる。
港には元請会社の担当者が迎えに・・・来ていなかった。何かの手違いらしい。幸いなことに元請会社の事務所が港から徒歩5分の所にあるというので、私は同行してきたI嵐さんと、そこに向かった。ほんの200mほど行ったところにあるのだが、そこまでの道すがらで三宅島の現状と言うものを目の当たりにする。
道路の脇、民家の庭先などが全て黒い砂が堆積している。火山灰である。昨年の台風で大部分は流れてしまっているだろうが、土埃というものがない。蹴り飛ばしてもジャリっと音がして粗い粒子が飛び散るだけ。商店の間口にあるアルミサッシはコーティングされているはずなのに白い錆びを噴いて、ツヤなぞ全く無い。空き地に置かれている自動車は腐食して屋根が落ちているとか穴が開いているなんて当たり前。腐食を免れていていても埃の体積によるツヤの無さではなく、明らかにダメージを受けたツヤの無さと色あせである。
トタン葺きの家屋・小屋はボロボロの切れ端がかろうじて引っかかっているか、剥がれたトタン板が地面に崩れた状態で積もっている。そんな状態で風雨に晒されていたのだから、家の中にあったものはグチャグチャである。それどころか家屋の梁や柱が剥き出しになっているのは当たり前で、それらが朽ちてしまい、かろうじて建物があったことが解る程度である。
離島のことである。商店の看板なんぞ何度も書き直され、ペンキが分厚く塗られているだろうに何の効果もなかったように錆びを噴いてこれらもボロボロなのである。対候性を誇る自動販売機も同様である。
特に飲料の自販機は冷媒として高圧ガスを入れた、銅や真鍮で出来たコンデンサーを積んでいて、商品が重たいこともありガスと潮風による腐食で自重に耐えられなくなったようで、商品見本の窓枠はどれも崩れ落ち、ドアなど無くなっている。機械そのものも、ちょうど人間が膝を折って倒れるように崩れ落ちている。
草木は生い茂ってはいるものの、基本的に立ち枯れした樹木が多く、そのほとんどの樹木の樹皮が落ち、白い木肌が剥き出しになっている。その様子はまるで白骨が散らばっているようである。しかし、名産である椿だけは力強い緑色の葉を茂らせ、赤やピンクの可憐な花を、今を盛りに咲いている。
その骸の様相を成した山。可憐な椿の花の対比、新しく作り直された公衆電話の電話ボックスの照明が物悲しさをより一層、印象付けているのかもしれない。
結局、元請の事務所には誰もおらず、港待合室に戻ることにした。火の気は全く無いし気温は低いが、風が凌げるのであまり寒くは無い。事前に調べたところでは、三宅島は黒潮(南の方から日本列島に沿って流れている暖流。これに対して北からの海流を親潮と呼ぶ。)のド真中にあり、正確なところでは不明だが、気温が内地よりも2℃程度高いようである。後に解るが、霜や雪などがないらしい。というよりも出勤のときに吐く息が白い、ということもあまりない。
使える車も無く、宿もわからないので行動することができない。迎えが来るのを待つ以外にやることもないので、竹芝桟橋で買っておいた菓子パンとミネラルウォーターで朝食である。妙にバター臭いパンだがナゼかアッサリした味である。空腹なのと硫黄とタバコ以外の香りであるので心地よいし、美味い。
日の出を迎えた頃、ようやく元請会社の人と連絡がとれた。開口一番“すいません、忘れてました!!”だと。迎えにきたのは三宅島島内でナンバー2であるY中さん。その人が軽四輪ワゴンでやってきたのだ。法律で定めるところ、軽四輪の定員は4人。もちろん運転手を含む定員である。しかし三宅島に渡ってきた我々は4人・・・。どうするのか?全員乗るのである。定員外乗車である。しかもその車の外見がすごい。
ボコボコとゴルフボール大の丸い錆びが出て、ヘッドライトハウジングなどはガムテープで仮留めされている。車体全体はやはりツヤというものは全く見受けられない。人に例えるならば、ニキビ面の男子中学生を想像すればイメージに近いだろう。ヤツラが脂ぎっていることを除けば。
我らを乗せて、宿に向かって走る車窓から三宅空港が見える。滑走路はちゃんとしているが、グリーンゾーン(滑走路周辺の芝生。)には、ススキやら名称不明の雑草が生い茂っている部分もある。冬なので枯れてはいるのだが、北海道の内陸にある自家用機専用の飛行場だってもっと整備されているだろう。管制塔を始めとする空港施設は錆びたり風雨に晒されたりして、やはりボロボロである。
三宅空港は地方空港とは言えレッキとした東京都直轄の空港。離島において空港と言えば内地との交通要所であろうが、復旧の手を入れられない理由がある。
三宅空港の北側約半分が二酸化硫黄ガスの高濃度観測地域の中に入っていて、復旧作業はできるものの、高濃度地区に指定されている個所は基本的に立ち入りが制限されているのである。
聞けばこの三宅空港、火山ガスの影響で空港施設のほぼ全てがダメージを受けていて、滑走路はともかくとしても他の施設を全て作り直さないと復旧と飛行機の運用はできないらしい。三池港から坂を登ったところにある旧三宅村役場に掲げられた『都営三宅空港にジェット運行を推進させよう。』という横断幕が、その虚しさを演出している。この島に翼が甦るのはいつのことだろうか・・・。