キレて釣行決定
 私はその数日前からクサッていた。
 島内には飲み屋やパチンコ屋などの娯楽施設が全くない。娯楽と言えば釣りくらいなのだが、同行のN橋さんやY崎さんは釣りをしない。つまり日曜日を休みにしても、部屋にいて洗濯して掃除してテレビを見るくらいしかやることがないのだ。
 私にしても島に渡ってきて最初の日曜日、作業用と私の釣り道具を含む各自の生活用の道具を積んだトラックが船便の都合で届かず、部屋でボーっとしていても仕方がないから仕事でもしようということになり、休みなしで仕事をし続けたのである。9日になって、ようやくトラックが到着し、11日は無理にしても13日の日曜日は丸1日休んで釣りに行こうと思っていたのだ。ところがである。
「K川さん、これ見てみなさいな。釣りなんかいつ行かれるか、わかんないよ。」
 施工管理のM本さんが私に紙ペラを手渡し、言ったのだった。手渡された紙ペラは工程管理表であった。
 これは工事期間中の何日目に何の作業を行うかが記入されている表で、元請会社や発注元(今回は東京都)の担当者に提出され、基本的にはこの表に基づいて作業が進行する。もちろん天候や途中の検査、使用する材料の手配などで作業日程が前後することもあるので、そこに記載されている作業日程は幾分余裕をもって計画され、記入・提出される。
 もちろんこれには一次下請けである会社の担当者と二次下請け会社(実際の施工を行う会社。今回は私の所属する会社。)の担当者とで打ち合わせが行われて計画される。N橋さんはベテランのグランド屋であるから、各作業に対し実質作業日数は何日、と言う風に所要日数を伝えてあるのだ。しかし、それに対して一次下請けの担当者は、何を勘違いしたのか所要日数を単純に足し算をしただけで工程表として記入、提出していたのである。どういうことか?
 仮に月曜日から開始して、雑草木の除草・取り除きに必要な実日数を4日、集積に3日、搬出に2日費やすとしよう。つまりここまで9日間必要となる。集積までは7日間であるが、日曜が入るので集積完了は翌月曜日、搬出終了は2日後の水曜日になるのが普通、というか当たり前なので、その間に雨が降って作業が出来なければ木曜、金曜と伸びていくのである。
 ところがただ単純に必要日数を足し算しただけで、しかも休日の設定をしないで工程を組んでしまっているので、雨天考慮は別とされていても竣工予定(作業完了)が少なくても4日、短くなるのである。これでは余裕が全くないので、荒天により工事が遅れた場合に取り戻す術がなくなってしまう。それにこの工程表、休日の設定が全くないので、明らかに労働基準法違反である。そして休日がない、という事態になると人間と言うのはヤル気がなくなるのである。
 普通の生活を送っていれば、どんなに仕事が忙しくても気分転換や息抜きができる。例えば自宅に帰って家族の顔を見るとか、食べたいものを食べるとかである。好きなテレビを見たり好きな音楽を聴いたりもできる。しかしここにはそれらがない。新聞ですら1日遅れ、雑誌なども限られたものが限られた数しか入ってこない。島内の観光と言っても車で30〜40分あれば一周できてしまう島であるし、ましてや名物などもない。釣りをするか酒でも飲みながらテレビを見るかくらいしかなく、車の運転ですら娯楽になってしまうような環境。それどころか女の子、というより中年女性の姿すら見かけない。東京消防庁の火災予防のポスターに写っている女性アイドルを見とれてしまうくらいなのである。
 そして何がツライって決まった休み(休日)がない、ことである。普段ならば原則として日曜日は休み。平日でも、起床→外を見ると雨→社長に電話→降り方の様子を見て、その日の仕事は休み、となるのが通常である。間もなく雨が止むとわかっていても一晩中雨が降っていたり、前日の朝から夜半まで、あるいは前日の午後から降り出して日付が夜明け前に止んだとかいう場合でも、よほど工期が押し迫っていない限りは休みとなる。グランドの表土が水分を大量に含んでしまうため、重機で動き回ると土をこねくり回してしまう結果となるし、キャタピラの跡が窪みとなり、そこに水が溜まっていつまでたってもぬかるんでしまうからである。それが判っているから、雨上がりの日はみんな現場に出ないのである。
 ところが、休んでもやることがないのと、「とにかく現場の様子を見に行こう。」というM本さんの意向により、無駄とわかっていても現場に出るハメになるのだ。そして現場に出てしまえば「やれることをやろう。」ということになり、これで午前中はツブレる。こうなると午後が休みになっても休んだ気がしないのである。昼寝するにしても朝の二度寝と違い、ウトウトとしているだけ。陽も高いので酒を飲むわけにもいかず、かといって釣りにも行かれない。エサを買ってきてもガチガチに凍っているし、日によっては波が高くて危険なのである。
 いつものとおりに『朝、雨が降っていたり、雨が上がったばかりならその日は休み』というのをそのまま通してくれたら、前日からエサの用意もできるし、美味くもない朝食なんぞ食わずに釣行できるのだ。
 狭い部屋に2人押し込まれての共同生活で食事の時間から入浴の時間、喫煙場所の制限どころか行動の制限まで受けて、食いたいものも食えなきゃ、読みたいものも読めず、娯楽なし。あるのは同じ給食を食べさせられ、強制的に組まれた作業工程で午前8時から午後5時までの作業だけである。まるで借金を払えずに叩き込まれたタコ部屋か刑務所である。
 場所が場所である。娯楽なんてない、荒んだ心を無聊するものなどないと解ってきているのだから、そのことについて文句はない。つりは私の娯楽であり趣味である。何かと不自由な島内での生活である。私が趣味と実益を兼ねて釣りに行き、魚を釣ってくれば同行のN橋さんやY崎さん、はるばる熊本から来て戴いているM本さんや同宿の他会社の人たちだって週に一度くらいは刺身が食えるだろう。そしてそれは、ささやかではあるが息抜きや気分転換となり、作業意欲へと繋がるだろう。しかし、それらの娯楽や息抜きの場所・手段が有り余っているところにいる人物が、あまりにも配慮が欠けた仕打ちである。ここに至って私はキレた。
「民宿に宿泊して、ヒマがあったら釣りができる、って振れ込みだったから三宅島に来たんだ。それを奴隷か懲役じゃあるまいし、こんな飯場に押し込められて、楽しみにしていた釣りまで取り上げられて、休まず仕事しろってぇなら、こんなクソ面白くもない島、とっとと出てってやる。」
「(釣り)道具があるからヤキモキするんだ。いっそ無きゃせいせいするから、横浜に送り返す。」
 私はこう公言するようになった。
 これを聞いた他の三人もはじめのうちは笑って「まあまあ」とか「東京に文句言ってやるからさ。」などと言っていたが、日に日に笑顔と会話がなくなっていく私に気を使い始めた。それでも私は知らん顔して作業を少しでも進めようと、昼食を食べてすぐに現場に戻り、一人で作業したり、早出と残業をしようと発言をしたりした。そしてテレビの釣り番組や魚の話など一切見ようとせず、ついには郵便局で『ゆうぱっく』の伝票をもらってきつつ、釣り道具を梱包しはじめた。私は本気で釣り道具を送り返すつもりでいたのである。
 私は今回、S木から借り受けたノートパソコンと携帯電話のメールを使うことにより三宅島派遣班の通信担当になっていた。立場上、何の検閲も受けずに、一次下請けの担当者とうちの会社の社長に毎日のように苦情や悪口雑言を送りつけるのはワケない。目の前に海があって道具があって釣れる。事実、同じ宿舎の人たちが日曜日や作業の無い日に釣ってきているのである。これ以上、K川に釣りをさせずに放っておいたら何をしでかすかわからない、と判断したのだろう。職長格であるN橋さんがついに決断したのである。
「明日(13日)の午前中、現場に出なくていいから、どこに行けば釣れるのか、探ってこい。」
「いいですよ。みんな仕事するんでしょ?おれだけ遊んでいるわけにいかないでしょ。」
「いいよ。俺達は他にやることがないから仕事するってモンだけど、アンタはやることがあるんだから。そろそろ刺身も食いたいしな。」
 決まった休みが無いことと荒天で釣りにならない時に釣行したくないし、どうせ休むならみんなで休めるようにしたかったから取っていた態度だったのだが、午前中だけとはいえ、せっかくの配慮である。私は好意に甘えることにした。