潮とガスと錆びの島2
 三宅島にやってきて一週間ほどが経ち、荒天により本日休暇となった。そこで島の北側にある店に全員そろって買い物に出かけることにした。我々の宿舎がある阿古からは島を一周している道路(そのまんま、一周道路という)を時計回りに行ったほうが近いのだが、現場の様子を見るため反時計廻りに走り、目指す店へと向かった。ちなみに営業しているほぼ全ての店舗・民宿・都庁支所・郵便局などの公共機関はこの一周道路に面した場所にあるので、車のメーター読み約30kmのこの道路を走れば、島内で足せる用は足りる。
 我々4人を乗せた定員3人の4トンダンプは空荷なので力強く快調に走っていく。風向きによってガスの流れが違うので、すぐ近くにある“阿古高濃度地区”で硫黄の匂いは全くない。三宅高校のある坪田地区、三宅空港・三池港・旧三宅村役場がある“坪田高濃度地区”を経て、宿舎近くにある店よりも品揃えが良いスーパーに到着した。この店、店名を『正大ストア(せいだいすとあ)』通称“赤テント”といい、ニュースなどで営業再開を放映されていたのはこの店である。後に解るのだが。ここには二日酔いのときのフジテレビ・高嶋彩アナウンサーみたいな顔の女の子がいる。しかし、島に渡って以来、初めて見る20代の女のコであるから、多少ブサイクといえども貴重である。
 施工管理のM本さんが、一足が間違って右足用だけで構成されていたサンダルを気づかずに買った以外は無事に買い物も終了。もう用はないので三宅支庁を左に見ながら帰ることにした。神着・伊豆・伊ヶ谷を経て宿舎に到着。さて、これで島を一周したのだが、気づいたのはテレビで放映されている風景とえらい違うということである。
 ニュース映像では(ガスにやられて)立ち枯れした樹木、腐食して崩れた自販機、ボロボロになった車、崩れた家屋など、三宅島にあるモノがいかに悲惨な状態になってしまったかが連日のように放映されていたが、実際にはアレらがゴロゴロしているわけではない。
 確かに立ち枯れしている樹木はたくさんある。見た目、山の6合目より上はそれらばかりである。海岸に近い場所でもあるのだが、今は2月である。季節柄、単に寒くて枯れている木だって多い。というよりも結構、山すそのほうは緑が生い茂っている。島の名産、椿なんかは今を盛りに咲いているのである。
 自販機・自動車は見事なほどに腐食している。腐食して崩れていなくてもボディのツヤなどなく、ゴムやプラスチックの部分はボロボロになっている。家もトタン葺きの屋根や壁などが錆びてボロボロのものも確かに多い。が、これらがゴロゴロしている地域と言うのは『阿古高濃度地区』『坪田高濃度地区』が主でこれらの地区は居住はおろか、立ち入りも禁止されているくらいである。その状況は悲惨の一言に尽きる。何しろこの地域では電柱や道路、土留めの壁に至るまで、コンクリートがガスの影響で薄茶色に変色しているのである。 他の地域でも4年半の間、手入れがされていなかったおかげで建物は傷んでいるし、やはりガスの影響を受けてエアコンの室外機や物干し竿、農業漁業の道具などは傷みが激しいのは確か。だが、壊れたというのは昨年の台風や季節風などで壊れたほうが多いのではないか?と思うほどである。
 水道・ガス・電気のライフライン設備の修理をして外壁のペンキを塗り替えれば使えるという状態の建物のほうが多く、中にはそのままでも大丈夫といったものも少なくない。高濃度地区以外にあるトタンの屋根や壁などの建物も、最初からトタン製屋根材や外壁材として製造されたものを使っている建物は特に問題がないか、わずかに錆びを噴いている程度である。被害が多いのは、所有者が自分で建てた物置小屋だったり、普通のカラートタンなどで作られた建物が主である。
 お叱りを受けるかもしれないが、この避難期間中でも島民は自宅の保守管理のために帰島できたらしい。後から知ったのだが、島に戻ったら、一刻も早く今までの生活を取り戻すんだと、現在よりもガス濃度が高い最中、また今よりも遥かに情報が少ない中、自分の財産を守るためとは言え、死に物狂いで自宅の屋根に積もった火山灰を取り除き、屋根のペンキを塗りなおし、敷地内の雑草木を人力で除去して、自宅の保守管理をされていた建物は立派な状態である。さすがである。
 それでも三池港北側にある三池地区と言われていた、今では坪田高濃度地区の真中にある集落に下りると、まだ建てて間もなかったのだろう、ガスにもめげずに手入れをしていたのだろう、キレイなレモンイエローに塗られたアメリカナイズされた平屋造りの家がある。その家の壁面に『もうがんばれない。by三池』とペンキで手書きされている。この地域の人たちの本音であろう。これを書いた方の心中を考えれば安易にがんばれ、などと、私は言えない。
 報道関係者からしてみればこのようなコメント、立ち枯れた樹木の群れ、腐食して崩れた自販機に自動車、ガスに曝され朽ちた家屋など、被害を語るのには絶好の映像であるし、視聴率のことを考えればオイシイだろう。こういう映像を流して『みんなで支援しよう』と啓蒙することもできるだろう。だが、不安や絶望・悲惨な光景を報道することばかりが報道ではない。ちゃんと無事な地域や家屋も少なくないという希望も報道して、まだ帰島しない島民の不安を取り除くことも報道の使命だと思うがね。
 誤解してもらいたくないことだが、「なんだ、大したことないんじゃん。簡単に復興できるんだろ。」ということではない。農耕地は火山灰で完全に埋もれ、地区によっては農地・住宅地を問わずに火砕流や泥流にやられ、これらを除去・復旧、補修や手入れといっても金銭的には軽微なものでも数十万、それ以上となったら百万単位の金がかかる。助成金が出るにしても、これの負担だけでも大変である。しかも普段、帰宅するみたいにそのまま生活に入れるわけではない。少なくとも家屋周辺の除草、火山灰の除去、室内の掃除をしなければならない。そして、民間・公共の区別を問わず全施設に共通している被害は”家電製品の全損”である。
 二酸化硫黄というガス、理解しにくければこう言えば理解しやすいかもしれない。亜硫酸ガスである。空気中の水分に合えば、学生時代に理科や化学の実験で使った硫酸(これは正確には硫化水素の水溶液。まあ、似たようなもの。)と同じものになる。つまり島中、硫酸の霧で覆われているのと同じ状態であり、殆んどの金属と反応して腐食させてしまう。こんな離島(失礼)であっても、ファックスやコピー、ワープロやパソコンなどの精密電化製品。電話やテレビ・オーディオ・冷蔵庫・炊飯器・洗濯機・エアコンなどの一般家電製品などの細かい電子部品など一撃である。しかもただでさえ海沿い特有の”塩害”がある場所なのだ。機械には最悪の条件である。比較的電子部品が少ない冷蔵庫などでも熱交換器やその配管がやられたり、モーターなどが腐食してしまっているのである。帰島したのはやはりお年寄りが多い。これらを運び出すだけでも大変だろう。
 その他、時計や大工道具などの機械物は言うに及ばず、置いていった鍋釜などの炊事道具や調味料、服やベニヤ合板製の家具、フトンやマットレスなどの寝具もガスの影響で原型は留めているものの、使い物にならない。これらのものがゴミとして、島のゴミ集積所にあふれている。そしてこれらは燃やせるものは島にある焼却場で処分され、処理できないものは船で内地に運ばれて処分される。その労力だけでも大変なことだろう。捨ててしまっても避難先から持ってくる人はまだ良いとしても、親戚宅などに身を寄せていた人や業務用のものなどは、その再購入するだけでも大変な経済的負担だろう。
 自動車はさすがに個人の力ではどうにもならない。まずは完全にバッテリーが上がっている。バッテリーを交換したとしても、4年半も動かさなかったのである。エンジンやセルモーターの軸、発電機などは他の家電製品と同じである。それにガレージなどに入っているならまだしも、殆んどが露天に置かれているのであるため、ボディ上部には噴火によって空から降り注ぐ火山灰とそれに混じる火山弾に当たり、顔のソバカスかヒョウ柄のように錆びを噴いている。モノによってはそれが原因で車体が崩れ落ちているものもある。そしてパトカーや消防車も例外ではないのだ。これらを処理・処分したくても相手は自動車である。自走も出来なければ人力で動かせるものでもない。ではどうするのか?『火山被害調査団』の出番である。
 このチーム、東京都と三宅村の要請で、専門家で構成された集団であり、主に建築物などの被害状況を調査・認定するのが仕事であるらしい。この人たちが『全損。処分。』と決定すると、スプレーペンキで道路から見えるように車体数箇所、丸印を書かれる。これを見た処理業者が丸印の書かれた自動車にワイヤーを架けてユニック(クレーンの着いたトラック)で吊り上げ、港に運んでいくのである。運ばれて港に集積された廃自動車は島内に処理施設がないので貨物船に積まれ、内地で処理される。その他、家庭粗大ゴミ、建設・建築廃材、廃棄処分のものなども、その膨大な量と処理能力から内地で廃棄処分が成される。
 これらが島の現状である。簡単に復興などしない、それどころか一旦高濃度ガスが大量発生すれば元の木阿弥に成りかねない、それはが三宅島の厳しい現実なのである。
避難前も帰島後も変わらないのは芳醇で厳格な自然。季節風とどこまでも蒼く澄み切った海原、磯に打ち付ける豪快な波と潮騒、可憐な椿の花などの森羅万象である。
 私が寝食しているのは、島の西側にある阿古という地域である。三宅島において、これより西側は最短で和歌山県紀伊半島の白浜か四国は徳島県の沿岸に当たる。もちろん、この地域は見えない。だって、地球は丸いから・・・。というワケで、日の出を見る機会はなかったのだが、夕日は悪天候でない限り見ることなった。太陽は西側の水平線に目掛けてドーンと落ちていく。その朱い色たるや、見ていて涙ぐむくらいの鮮やか且つ深い緋色というか朱色である。
 かの陶芸職人(芸術家か?)の柿右衛門は、紅い夕日に照らされた、熟した柿の実の色を陶器に再現しようと試行錯誤を繰り返したが上手くいかずに借金が嵩み、焼き物の薪代も貸してくれる人もいなくなった頃に奥方が家に設えられた先祖代々の門を打ち壊して薪とし、焼き物としては他に類のない緋い色を作り出したという。
 三宅島の夕日を見たら、柿右衛門の気持ちが良く解かる。とにかく一遍の濁りもない、赤でもなく、橙色でもなく、緋・紅・朱・・・と、表現しがたい『あかい』色なのである。これを見て今日の疲れをタメ息と共に吐き出し、また明日もがんばろうとふんぎるのである。
 部屋に帰ってきて着替えて一服。しばらくするとハラを減らしたY崎さんがやってきて夕食を摂るのに食堂に向かう。予め、着替えやタオルを持って食堂へ行き、食べ終わったその足で風呂に向かうのだが既に日没後なので当然、辺りは真っ暗。疲れた身体を引きずりながら大浴場に向かう坂道を登りながら顔を上げた私は感嘆した。
 当たり前のことだが三宅島は離島で、都会や繁華街など、周囲に明るい場所などあるわけがない。その分、見上げた空には満天の星空。小学生の頃に見た星座板そのものの空が目の当たりとなる。これほどの星を見るのは北海道の稚内に宿泊した以来ではないだろうか?これほどのキレイな夜空、歳を食ったジィさんと見るよりも、好きな女のコと見たいものである。
 これほど懐深い自然が満ち溢れている島。本来は非常に豊かな自然環境とのどかな土地なのである。噴火したとはいえ、生まれ故郷である人たちが帰りたい、という気持ちは痛いほど解かる。
 そして故郷である三宅島の自然は、帰ってきた人たちに優しく厳しく「おかえりなさい。」と無言で示すだけなのである。