硫黄の煙が目に染みて
 我々の居住する宿舎玄関を入ってすぐの壁に、屋外と屋内の二酸化硫黄濃度を表示するカウンターが設置されている。なるほどタマゴが腐ったような匂いが宿舎周辺を漂い、村役場が放送する「火山ガス注意報」が聞こえてくると、カウンターの数値が動き出す。
 ガスが検知されると場所や濃度の内容を問わず、島内のあちこちにある防災無線のスピーカーで放送され、風向きの関係やドライバーなどの放送が聞こえ難い人にもわかるように、ガスの濃度が低い順に青・黄色・緑・赤とランプが廻る。これが24時間、ガス検知の地域や濃度に関係なく放送されるので、帰島した住人からは『うるさくて(まぶしくて)寝られない。音が割れて、何を言っているのか解からない。』と苦情が出ている。
 周知のとおり三宅島では、全島内に雄山から噴出される火山ガス(二酸化硫黄ガス)の影響を受ける可能性がある。風向きによって全く検出されない場合も多いのだが、0.01〜1ppm程度の警報ならしょっちゅう発令される。そしてそれが観測されれば濃度によって、屋内に避難。速やかに移動。その地域の外に避難。脱硫装置の付いた施設に避難などとなる。それらの行動には必ずガスマスクを装着すること、となっている。もちろん、島内にいる人はどの地域にいるのかを問わず、常時ガスマスクを携帯することが義務付けられている。現に三宅島に行くフェリーの乗客は、竹芝桟橋でガスマスクを買わされている。
 我々のいる阿古地区はこの時期、西からの強い季節風にガスが飛ばされてしまうらしく、滞在した一ヶ月の間に宿舎周辺で硫黄の匂いを3回ほど感じた程度である。しかも最初のときなどはほのかに匂った程度で、しかも風呂から上がったばかりだったので、気分的には温泉地にいる気分である。
 島を時計に見立てると、8時の地域に阿古地区があり、現場である三宅高校は島の6時半程度の場所、坪田地区という地域になる。この阿古と坪田の間、6時から7時半の間が『阿古高濃度地区』と呼ばれる地域で、たとえガスマスクがあっても立入を禁止されている。じゃあそこで復旧作業をしたり、道路を通過する場合はどうするかというと、施工管理者はガス警報機を携帯し、規定濃度になったら作業を中止して区域外に退避、もしくは避難施設に退避するのである。道路の通行は車の窓を閉め、空調を内部循環にして速やかに通過すること。いずれの場合もガスマスクを装着して、である。また2時から4時までの地域は『坪田高濃度地区』と呼ばれ、今の時期は常に硫黄のにおいが漂っている地域である。そして、帰島が始まった頃にマスコミが盛んに報道していたのも、主に三池港を中心とした坪田高濃度地区の映像である。
 私が滞在している間は、同じ高濃度地区指定を受けている阿古よりも坪田の方が濃度が高く、目はチカチカするわ、酷いときにはセキが止まらず、口の中がいがらっぽくなって、鼻というか咽喉の奥が酸っぱいような刺激を受ける。自覚症状を細かく書くと、
 ①温泉地にいるような匂いを感じる。
 ②その匂いが濃くなる。
 ③鼻や咽喉の奥が酸っぱいような刺激を感じる。
 ④鼻がムズムズして、水っパナが出始める。
 ⑤咳やクシャミが出始める。目がショボショボとして、あとで目脂が多くなる。
 ⑥咳・クシャミが頻繁に出るようになって、目がチカチカとして、頭痛がし始める。
 ⑦頭痛が激しく、気分が悪くなって座っているのも苦痛を感じるようになる。
 ⑧意識を無くして死亡。あるいは呼吸器・神経器官に重篤な後遺症害を負う。
という具合だ。これら(⑧は論外だが。)自覚症状があるうちはまだいい。
 二酸化硫黄ガスの恐ろしさは毒性・腐食性もさることながら、濃度が高まると酸欠状態を引き起こす可能性が極めて高く、そしてその危険は匂いだけでは判断できないということである。私は牛乳屋勤めをしていたころ、同じ会社のアイスクリーム販売部門で保冷車に乗っていたことがあり、トラックの保冷コンテナ内で酸欠を体験したことがある。これは冷却機を搭載していない保冷車は、その冷媒をドライアイスで賄っている。ドライアイスは固体化した二酸化炭素であるから時間が経ってドライアイスが減れば、コンテナ内の二酸化炭素濃度が上がって、酸欠状態になる。そのコンテナに入って荷出しをしなければならかったのである。
 では高濃度のガスの中で酸欠になるとどうなるのか。全然、苦しくないのである。スゥーっと目の前が暗くなるだけである。私の場合はもともとわかっていたことなので事なきを得たが、そのまま倒れていたら、今ごろはあの世行きである。真夏の青森県八甲田山ではくぼ地に入った陸上自衛隊員が溜まっていた酸欠性のガスにやられ、数名が亡くなったケースがある。火山ガスで死亡した例も数多い。群馬県白根山阿蘇などで登山客が次々に倒れて何人か亡くなっているのである。これが三宅島では起こる可能性があるのだ。
 よしんば命が助かったとしても、呼吸が止まってしまえば脳や神経をやられてしまう。そこまで行かなくても呼吸器官に重篤な障害を残す結果となりうる。この辺は盛んに広報しているので詳しくはそっちを調べてほしい。
 そんな危険なガスにいつ襲われるかわからない状況なのだから、島民や防災関係者は匂いを感じたり、警報が発令されたら直ちにマスクを装着しているのだろうと思うかもしれない。が、そんなことはない。もちろん常時携帯は義務であるし、パトロールに見つかるとうるさいから持ってはいる。だが、なーんにもしないのだ。そんなものはだーれも装着しないのだ。実はこのガスマスク、問題アリアリなのである。
 頻繁に発令されるガス濃度として1ppmのときがある。その濃度環境だと竹芝で買ったマスクは、普通に呼吸していて約80分は効果がある。普通の健康な大人でヤバイ濃度というのはそれ以上であり、このくらいなら問題はない。これが行政の指導する“四の五の言わずにとっとと逃げろ”という濃度(5ppm)となると20分弱しか効果がない。それどころかメーカー側はその濃度に達したら、マスクを使うなとしているのである。効果を保証できないからだ。
 ところが、私のいる現場で観測されたガス濃度は最高で6ppm超。しかも匂いがし始めて数分でその濃度に達したそうだ。幸いなことに私はその事態に遭遇しなかったが、聞いたところによると、呼吸は苦しくセキ・クシャミは言うに及ばず、にわかに頭痛が起こり、目を開けているのも辛く、椅子に座っているのも困難な状態になったそうな。もちろん即刻退去、ってか、避難したそうだ。
 そんな性能のマスクをつけてどこに逃げるのかというと、三宅高校周辺の場合は車で10分ほどのところにある旧三宅村役場なのだが、そこに逃げ込むまでに問題がある。そこは『坪田高濃度地区』の中にあるのだ。濃度の高いガスから逃れるために、わざわざ高濃度のガスが常に検出される地域に突っ込んでいかなくてはならない矛盾。しかも避難所に到着した頃には、マスクが使えなくなっているのである。「じゃあ、フィルターを取り替えればいいじゃんか。」と言う人もいるだろう。実に正しい意見であるし、実直な対処法である。
 ところが、スペアのフィルターなぞない。私が用意したマスクが特殊なものだからではない。私が持っているのは竹芝桟橋で買った、至極ポピュラーなものである。では、なぜないのか?
 島内でスペアのフィルターを売っていないからである。私は商店を見つけると、そこが何屋であろうと立ち寄って店内を探してみたが、どこにも売っていないのである。在庫しているのかどうか、訊いてみればいいのかも知れないのだが、少なくとも店頭に陳列されているのを見た事がない。しかもこのフィルター、ガスに対応するためには、マスク本体に装着しておかないといけないのだが、そのままフィルターを露出させておくと空気中の様々な成分を吸着してしまって効果が薄れ、肝心の時に使い物にならなくなってしまう。そしてこの事実を東京都も村役場も報道機関も一切、広報していない。いくら”自己責任と判断において帰島して”といっても、必要な情報と補充品の供給体制の確立と広報・報道は行政や報道の役割だと思うのだが・・・。
 ちなみに防災関係者でも、治山(崩落防止や落石防止工事等)や砂防(大雨が降ったときに山肌が削られて泥流となることを防ぐ工事等)など、雄山周辺の危険区域至近場所やモロに危険区域内で復旧・防災作業を行う作業員達のガスマスクは、我々の持っているようなチャチなマスクではない。
 今からちょうど10年前の3月、日本どころか世界中を震撼させた事件『オウム真理教地下鉄サリン事件』が起きた。あの時、サリンの除染作業を行った陸上自衛隊・第101化学防護隊が使用していたような、頭部を完全に包み込むタイプのガスマスクを持って、作業をしている。わからなければ映画『スターウォーズ』に出てくるダースベーダー(ダースベイダーか?)を想像すればよい。あんなマスクが必要なほどのガスが噴出している地域もあるのだ。頼むから渡る前に知りたかった。
 こんなことから硫黄の匂いがするとか、村役場が広域放送する火山ガス情報で注意報が発令された場合にガスマスクを装着するのは、補充の心配のない(すぐ帰っちゃうから必要ない)報道機関のレポーターとか女性スタッフだけである。だからちょっと匂っただけでガスマスクを装着するのは内地から来たばかりか、すぐに内地に戻る人物と判明する。
 現場に重機用燃料の軽油(重い機械なのに燃料は軽い油を使うとはフシギだ。)を運んでくるI関商会のオヤジ(釣りキチ。私が在島中に重要な釣り情報を提供してくれたチビっこいオヤジ。とにかく気が良い。)などはガスマスクを持ってこないで、店にあるならまだしも家にあって、まだ袋も開けていないという。それどころか、ガスマスクは?と訊く私に向かってこういった。
「こんなの大したモンじゃねえさ。ここのガスじゃあ、死なねぇよ。死ぬくらいのガスが出てりゃあ、役場だって帰れって言うもんかぃ。ダメならオレんトコからなら高校に逃げちゃやぁ、イイんだからよ。」
 ・・・I関のオヤジさんよ。同じ釣りキチとして言っておくが、一応は万が一ってこともあるじゃんかよ。気休めでもなんでも一応、ガスマスクは持って、釣りや配達に行けよ。
 これらのことを踏まえてなのだろうか、現在、島内の各学校・公民館などの公共施設は脱硫装置(空気中に含まれる二酸化硫黄ガスを除去する。決してコスモクリーナーではない。念のため。)を取り付け、建物の気密性を高める改築工事が行われているので、将来的には、チンケなガスマスクでも安心できるようになるのかもしれない。
 やや大型の筐体となるものの、家庭用の脱硫装置も近く発売になるという。詳しくは不明だが各家庭での脱硫装置購入には、行政からの補助金が出るそうである。ちなみに価格は29万円弱。ウワサ(あくまでも詳細は不明)では、3ppmまで対処できるとのこと。
 三宅高校近くに住むおばあちゃんは、自宅の庭に作られた畑で、明日葉を採りながら話してくれた。
「みんな、避難してる間に蓄えてあった金を使い切ってしまったから、島に帰ってきたんだ。補助金が出るったって20万からの金、どっから出るんだい!?金があったら、そんなもんいらない(このおばあちゃんの避難先だった)八王子のほうがよっぽどいいよ!わたしゃ、死んでもかまわん。もう、アイツら(役人)の言うことはきかん!!」
 文章にするのは簡単だが、実際に聞く迫力たるや相当なものである。このおばあちゃん、ものすごく人の良い、典型的な日本のおばあちゃんなのである。しかしこのおばあちゃんの言葉は至言であろう。もちろん島民全ての気持ち、ではないが、これも三宅島の現実なのである。そして、私の切なる思いとして「このおばあちゃんの家をガスが襲わないように。おばあちゃんやI関のオヤジが、ガスにやられないように。」と願うのだった。