食いしん坊、残念!
「民宿に泊まっての仕事だから、食事もいろいろ出してくれるよ。しばらくすりゃあ、朝から採れたての魚の刺身が出るよ。」
 これが三宅島に渡る前、N橋さんから聞いていた触れ込みである。
 事前帰島して体制を整えていいるとは言え、酒やタバコといった嗜好品はともかく、日用品・生鮮食料品などの本格的な物流が開始されるのは2月2日からである。
 操業できる漁業関係者が戻っていないのだから、朝から刺身というのはしばらく無理としても、宿のオヤジさんなりオバさんなりが作ってくれた暖かい食事にありつくことはできるだろう。何しろ楽しみと言ったら釣りか酒を飲むかテレビを見るかしかないのである。これの他と言ったらやはり”食事”だろう。期待に反して宿泊が飯場となったが、飯場である以上は食事が出る。もちろん別料金の有料である。
 到着したその日、いきなり現場に行くのもなんだし・・・と、一休みして午後からの出動となったのだが、事前に頼んであったので我々の分の昼食も用意されていた。折り詰め、といっても、薄いプラスチック製の使い捨て容器に入った弁当である。さすがに建設・建築作業車向けの弁当。味付けは濃く、量はタップリである。但し、美味くはない。それでも空腹であることも手伝って、高齢のM本さんを除く我々3人は完食した。食べて終わったところで、宿舎の管理人がやってきて、生活上の諸注意を告げていく。というよりも、主に食事の申し込みの話だった。
 それによれば宿舎で調理をしておらず、防災関係者宿舎に供給される食事は、全て専門の給食センターで調理されて運ばれてくるため申し込み制。毎日18時までに翌日分の食事数を会社単位で申し込む。朝食と夕食の給仕は全てセルフサービスで、ご飯と味噌汁、お茶はお代わり自由。昼食は全て弁当で、希望する現場事務所・会社事務所・食堂に配達してくれる。
 不思議なのは宿舎内は禁煙であるのに食堂内は喫煙可で、代わりに禁酒なのである。これは作業終了後、晩酌をしながら食事をしていると長時間食堂に居座る結果となり、他の作業員が食堂を利用できなくなることと、食堂内にて飲酒していた連中が騒いで、やはり飲んでいた別の会社の作業員とで口論となって問題を起こした事が原因らしい。
 さて、昼食を摂って現場で作業して、宿舎に帰ってきてから食事である。
 食堂中央に設置された膝丈のテーブルの上に直径50cmと30cmのステンレス製食缶(学校給食などで汁物の入ってくる容器)が各二つづつと農家がキャベツなどの収穫に使うような40cm×40cm×60cm(あくまで目分量)のプラスチック製のカゴが、やはり2つ。大きな食缶にはご飯、小さいほうには味噌汁。カゴの中に入っているプラスチック製のリターナブル弁当箱に惣菜(おかず)が入っている。もうひとつのカゴには、今では公立の病院か学校の学食、田舎にある駅前食堂くらいでしか見かけることのない、メラミン樹脂でできた白いドンブリとお椀が入っている。各自がこれらの食器にメシと味噌汁をよそい、弁当箱のおかずをと共にテーブルに持っていって食え、というのだ。
 食事終了後は別に用意された同じカゴの中に弁当箱・ドンブリとお椀の別に入れ、割ばし・箸袋などのゴミはゴミ箱、残飯はバケツへと捨てる。使った湯呑茶碗は別に設えられたシンクの洗いオケの中に入れることとなっている。
 我々は手際よく用意をして、さっそく食べることにした。私は味噌汁を試してみた。ヌルい。ご飯は?これも同じ。おかず・・・冷め切っている。ここでの食事は要するに、三度三度弁当なのである。これを悟った瞬間、民宿泊で明日葉(伊豆諸島の名産品。そこらじゅうに生えている。)の味噌汁、天ぷら、御浸し。地魚(私が釣ったものも含む)の刺身や煮付けなどで一杯という私のもくろみはガラガラと音を立てて崩れ去った。
 正確には味噌汁、これの味は悪くない。というよりも大量に作っている関係上、美味い。しかし、ぬるいところをもって来て具が殆んど入っていない。先に食事をした人に取られてしまい、ちょっとしか入らない。よってアサリやシジミの味噌汁など、貝殻が入っているからそれ、とわかる程度である。ご飯もぬるい上に安物の標準米なのか、それとも食糧庁の政府備蓄米の蔵ざらえでもやって出荷したのか、味気ない。そして湯気でベシャベシャである。そして滞在中に食したご飯の炊き上がり方が、常に柔らかいのと妙に粉っぽかったりガンタ飯だったりと、コンビニやホカ弁のご飯の方がよほど美味い。
 おかずは毎日違うが、鮭(マスかも知れない。)・サバ・ハマチ・タチウオの塩焼きか照り焼きのローテーション。たまに刺身が出るが決まってイカソーメンと筋だらけのマグロの赤身である。あとは天ぷらやフライなどの揚げ物、たまにトンカツなどが出る。わずかな煮野菜、業務用の袋入り佃煮や酢の物、漬物である。
 後で知ったのだが、給食施設も脱硫装置付きのクリーンルームで、ガスの侵入を防ぐために建物内が陽圧(外気より気圧が高い。)に保たれている。この状態で万が一、火災が発生すると燃えるのが早いので、防火上の制限から直火により調理を行うことができない。そこで、内地で調理・レトルト包装して三宅島に輸送。そして電熱器の湯煎で暖めるか電気フライヤーで揚げるかして、盛り付け。それを各宿泊施設まで配送してくるのだ。だから炒め物や焼き物は、我々の口に入る頃には当然冷め切っていて、脂が白く固まっている。焼き魚と思われていた魚の切り身は蒸されてからパッケージされたらしく、脂がすっかり抜けているくらいならまだしも、味まで抜けてしまっている。同じレトルトの焼き魚でも吉野家の焼き魚定食に付いて来るヤツのほうがよっぽど美味い。
 毎週金曜日か土曜日の夕方、若しくは完全に悪天候が見込まれる前日の夜、カレーが出る。そして一度だけであったが豚汁、これは具沢山で、しかも大量に作るので美味い。しかし豚汁はともかく、問題はカレーである。
 カレーの日のおかず箱にはキャベツ・レタス・キュウリの千切り生野菜、マカロニサラダ、ラッキョウ福神漬け、そして“こんなに小さいのがあるのか?”というようなパイナップルの輪切りと缶詰のミカンが2粒である。これを読んでいる方々はカレーライスをどのように盛って食べておられるだろうか?大抵の場合はお皿にご飯をのせてカレーを直接かけるか、少しシャレていればソースポットなどで別添えにして供するだろう。そしてスプーンで食べるであろう。ではこの宿舎ではどうか。カレーは別添えで出される。但し、汁椀にである。ご飯は当然、ドンブリに盛る。そしてこれを箸で食べるのである。理由は簡単、スプーンがないから、である。従って食いにくいこと甚だしい。「それならスプーンくらい買えばいいじゃないか。」と言うかもしれないが、これがまた売っていない、というか売っている店がないのだ。
 帰島開始から10日くらいで改善されてきたが、この時点で割り箸以外の食器と言えば、紙皿や紙コップなどの使い捨てのものしかなく、セトモノの容器は食堂にある湯呑み茶碗くらい。コップも紙コップか同じような用途の薄いプラスチックカップワンカップ大関に代表されるガラス容器に入った酒瓶を洗って使いまわす程度である。
 店もあるので食べるものも買えるのだが、菓子パンや缶詰、カップラーメンや酒の肴になるような乾物の類で、あとは調理を必要とするものばかりである。宿舎での食事も買い食いも、もともと美味くない上に冷めているので、一度食べてしまったら凡そ食欲をそそるものではない。それでも食べるのだが、3日もすると飽きてというよりも辟易してくる。そしてこの日々の食事、朝昼夜と各800円なのである。1日2,400円である。学校給食の代金を保護者が全額負担したとしても1食800円などしないだろう。確かにここは離島、食材・燃料などの輸送費込みといっても暴利であると思う。比べるのは不遜かも知れないが、ム所や自衛隊の食事の方が遥かに安くて美味い。私はム所のメシはトラ箱(泥酔者保護房)のものしか食べたことはないが、上野の連絡事務所でご馳走になった自衛隊のメシはお代わりしたくらいである。
 自分の家族の生活の先行きやガスの脅威、船で内地から輸送されてくる関係で生鮮食料品の入手が天候任せであるなど何かと不自由な中、何とか努力して調理されている給食センターの方々には誠に申し訳ないが、ここまでくると苦痛さえ感じてくる。普段から大したものを食べているわけではないので、味の美味い不味いはあまり文句はない。冷たい惣菜でも問題はない。だが、せめて米のメシと味噌汁くらいは温かいものを口にしたい。そして決定的なのは”生野菜が殆んど出てこない”のである。
 南極越冬隊や黒部第四ダムの越冬作業などの手記によれば、野菜の入手困難な状況下では人間の食欲と言うものが著しく低下すると書かれている。『宗谷』『ふじ』『しらせ』と歴代の南極観測船の乗組員は越冬任務の終わった隊員の出迎えに山ほどのキャベツの千切りを用意するというし、黒四ダムの越冬では急病人が発生し、その急送に付き添った医師が、奥さんの用意した鍋物用の白菜・ネギ・大根などの野菜を生でバリバリ食べたそうである。
 味噌汁にしても同じで昭和47年2月に発生した『あさま山荘事件』の折り、機動隊員達はやはり三度三度の冷たい弁当で士気を低下させ「生野菜が食べたい。熱い味噌汁が飲みたい。」とこぼし、それを知った軽井沢警察署の署員がドラム缶一杯の味噌汁を作って、あさま山荘を警備している機動隊員に配り、大いに感謝されたと聞く。
 寝ているときに出発前に横浜・上大岡の”養老の瀧”で店長が出してくれた、大皿いっぱいのキャベツの千切りの夢を見て、朝になるとタメ息を漏らすようになる。S木と飲むときによく注文する”冷やしトマト”を思い出しイライラしてくる。ああ美味かったなぁ・・・と。
 今、生野菜か女の子か、どちらか選べと言われたら私は生野菜を選ぶだろう。それどころか親や親類以外でセロリやパセリ、キュウリとかレタスを宅急便ででも送ってくれた女性がいたら、たとえ断られることが解っていても私は迷わず結婚を申し込んでいたことだろう。
 何しろ就寝中に見る夢で一番多いのが、大皿いっぱいに生野菜(調理済み)を乗せて差し出している笑顔の女性、なのだ。その女性も母親や親戚、元彼女は言うに及ばず。牛乳屋時代の得意先にいたアルバイトの女の子やチャットのオフ会で出会った女性。果ては友人・知人の奥さんまで、もうオールスターキャストで出演してくるのである。
 もちろん打開策がないわけではない。これは元請の監督(我々の担当ではない監督。)がとった方法だが、自分の食いたいものを作らせるのである。給食センターでではない。別の場所で、である。
 どういうことかというと自分のリクエストする食事や食材をある場所にいる友人知人に電話で連絡をする。するとそのリクエストを受けた人はそれを調達しフェリーに乗せ、三宅島の港で受け取るのである。では、どこに電話するのであろうか?八丈島である。
 フェリーは東京・竹芝桟橋を出て三宅島・御蔵島を経て八丈島に着き、帰りは御蔵島に寄港後、三宅島に午後2時前後に着岸する。監督としては現場や事務所を抜け出し、フェリー会社の事務所に保管されているリクエスト品を受け取るのである。三宅島も八丈島も離島であるから、地元民・離島民同士、これくらいの融通は必要悪だろう。これを咎めだてする気はさらさらない。
 しかし、それならそれで他の人にも便宜を図ってやったり、仲間内だけの密かな楽しみとしている分ならまだしも、その様子を他の作業員や打ち合わせに来る下請け会社の担当者に自慢するというのはいかがなものだろうか?食いたいものも食えず、冷めたおかずで我慢している人が多い中、一人だけ食いたいものを食い「いやぁ〜昨日のステーキは美味かったなぁ。」などと言っているのである。私はこれを聞いたとき殺意さえ抱いた。
 食いたいものが食えない、娯楽がない、一人になる時間がない、休日がハッキリしないというストレスは、島に来る前から酒の飲みすぎによりイカレた私の胃を直撃した。食えない、無理して食っても吐き出すようになってしまったのである。そして再開したばかりの薬屋で胃薬を購入、出発前に見送ってくれた連中にもらった“うこん”と共に服用するようになったのである。ちなみにこの時に買った『緑の胃薬・サクロン』は、飲む前からと飲んだ後、そして出てくるまで緑色だということが判明した。
 食事の状況を知っていたI嵐さんは内地に戻ってからすぐに、シーツや布団カバーと共にポンカンを送ってくれたので、しばらくは問題なく、また野菜不足を感情的になんとか補えて(その後、りんごも送ってくれた)いた。しかしそれは、グランド屋である我々だけのものではなく、共に同じ現場で作業をするペンキ屋さんと防球ネット屋さん達にも分けるため、すぐになくなってしまった。フラストレーションが高まる中、とあるテレビCMが私の鈍った頭脳を動かしたのだった。