きゅうさい・キューサイ・救済
 三宅島というのは絶海の孤島、すぐ近くに御蔵島神津島があるが周囲は全て海に囲まれている。従って内地のように、山脈があるからこちらは雨が降らないとか、山に雲が掛かっているから雨が降るといったことが通用しない。細かく言えば地元の人しかわからない気象現象というものがある(三宅高校入り口のおばあちゃんは「九州が雨なら島は必ず雨が降る」と言っていた。)かもしれないが、つい10分前まで雲一つない青空だったのに、にわかに暗雲が立ち込め、そのまま土砂降りの雨に襲われることがある。
 こうなると他の土木作業ならともかく、グランド造成と言うのは作業を続行すると、重機が表土をこねくり回し、まるで田んぼのようになってしまい、後々悪影響を及ぼすようになる。当然、作業は中止。少なくとも歩いてみて足がめり込まないようになるまで作業を行わない。この日はそんな日だった。昼間に降雨があったのではなく、寝ている間に、これまたタップリと降ってくれたのである。
 とりあえず朝食を摂り、現場へ行ってみたのだが、予定していた作業ができる状態ではなかった。それでも片付けや測量の確認、抜根不良の是正など、機械を使わない人力の作業を行って、これ以上はどうしようもないという状態になって引き上げることにした。それでも昼前、宿舎に戻った時点でも午前11時前である。思わぬ休暇に、私は数日前に見たテレビCMから導き出した策を実践することにした。
 私の投宿する阿古地区に、その時点で3軒の商店が営業し始めていた。この内、食料品を取り扱っているのは2軒。正確には3軒とも取り扱いはあるが、1軒は薬屋。ポカリスエットカロリーメイトを置いているに過ぎない。残る2軒の店も片方は本業が酒屋である。酒は豊富だが食料品としたら東京下町の駄菓子屋のほうがまだ種類があるというもの。残る1軒だが、ここはこの地域唯一のタバコを販売している店である。しかし、ここに私の求める品はデカいモノしかなかった。そこで私は同行のY崎さんを誘い、阿古から一周道路を時計回りで約8kmほど離れた神着地区にあるスーパー、帰島のニュースで開店を報道されていた“赤いテントのスーパー”にいくことにした。
 実は阿古の店はY崎さんが喫っているタバコ(ラーク1)を扱っておらず、この通称“赤テント”に行かないと購入することができない。そしてY崎さんが前日からタバコの欠乏を訴えていたのである。この後、天候が回復して仕事をしよう、現場に出ようということになっても車はないし、電波の受信状況が悪いために連絡がつきにくい。この状況で休暇というのはムリヤリにでも設定しないと、やることもないから仕事でもしようということになって、休みがないので、ダメとなったら徹底的に連絡がつきにくくするしかない。それを考慮してY崎さんを誘ったのである。
 国士舘大学卒、在学中は柔道部に所属し180cm、100kgの体躯。風貌は、まんまボブサップを脱色したような顔つき・体躯(知り合いでなければ絶対に声をかけたくない風貌。街中でヨタッった人が視線を逸らすほど。)のY崎さんであるが、正確は極めて温和。私の誘いに
「おう、ちょうどタバコがヤバかったんだ。行くよ。もう行くのか?あ、そう。じゃあすぐ行くよ。」
と、ニコニコしながら、現場までの通勤や買い物の足となっているトラックに乗り込んできた。
 所用でどうしても現場に立ち寄らなければならない関係上、遠回りで“赤テント”に向かう。それでも大した時間はかからない。トラックとはいえ空荷、スポーツ走行してやれば乗用車とヒケをとらない走りができる。現場に寄っても25分ほどで赤テントに到着した。
 酒を飲まない山崎さんはウーロン茶やバナナ、煎餅などのお茶菓子になりそうなものと、目指すタバコをカートン(最小まとめ買い単位。1箱で10コのタバコが入っている)買いしている。さて、私の作戦が開始される。
 私は真新しい冷蔵のオープンケース(スーパーやコンビニなどで牛乳や野菜が陳列されている冷蔵機能付きショーケース)を隅からスミまで、新妻の掃除した部屋をアラ探しするイジ悪姑のように“あるモノ”を探した。そして、それはあった。
 それを買い物カゴに入れ、ミカン・バナナなどと共にレジに向かう。ここで更なる幸運があった。
 店のレジに、通算8人目となる女性島民、しかも歳のころなら23、4というところか?ショートカットで茶パツと言うよりはキレイな栗毛色。そんなにカワイイとは思えないし愛想も良くはないが、思わず見とれてしまった。それを察知したのか、そのコは私が会計を済ませた後、店の奥に引っ込んでしまった。多少残念であるが、今はそれどころではない。ポツポツと雨が降る中、一刻も早くそれを口にしようとトラックに乗り込み、ビニール袋からそれを取り出した。
 私が求めていたあるものとは『野菜ジュース』。ここ三宅島にはセロリと言うものが売っていない。あるのかも知れないが、極めて少ないだろう。どちらにしても入手というか摂取困難なものである。これを味わいたければ特注するか、内地に戻るしかないのである。しかし、野菜ジュースには粉砕されて液状化されていてもセロリが入っているのである。もともとアクの強い野菜が大好物の私である。予定通りに民宿に宿泊していれば、特産である明日葉が食卓に並ぶだろうから、これで欲求は満たされているはずである。箸でつまんで終わりという量のキャベツで耐えている状態なのだから、内容量がわずか190gの小さな缶入りの野菜ジュースでも有難い。ペットボトル入りの物の方が安いが、宿舎に冷蔵庫がないので買ってもダメになってしまうので缶入りを購入するしかなかった。6缶入をむんずと掴んで購入したのだ。
 トラックを走らせて数分、私は買ったばかりで充分に冷えた野菜ジュースのプルタブを開け、ゴクッっと飲み込んだ。途端に口から鼻腔に広がる様々な野菜の強烈な香り。真夏に飲むキンキンに冷えたビールの比ではない。大げさではなく、全身の血液が音を立てて逆流するような気がする。同時に全身に鳥肌がたった。美味い!!野菜ジュースがこんなにウマイものだったとは・・・。
 実は、宿舎の居室で悶々としていたときには考えも着かなかったのだが、テレビを見ているときに「まずい!もう一杯!!」でおなじみ『キューサイの青汁』のCMを見てハッとしたのである。生野菜がダメならコレだ。だが島の中に青汁などあるワケがない。これに一番近いのが野菜ジュースだろう。これはアタリだった。
「あ〜あ、生き返った!!」
「なんだ、どうした?野菜ジュースなんか飲んで。胃に効いたか?」
 私の発言にY崎さんはキョトンとしている。私はワケを話した。Y崎さんは破顔一笑、我得たりといった表情で私に言った。
「なるほど。クロちゃんは野菜好きなのか。それならあの食事じゃあ、胃もおかしくなるわな」
 不思議なもので、たったこれだけでも気力と言うか活力と言うものが湧いてくるものである。先日、島を一周するハメになったと同じ風景であるので替り映えはしないのだが、細かな風景まで目に入る。ホントのホントに心が軽く、雨の風景なのに新鮮な風景に映る。
 林間学校のキャンプファイヤーで行われるフォークダンスで好きな女の子と踊れた男子中学生の如く、非常にウキウキとしながらハンドルを握る。ここから宿舎までには、いつも買い物をする店がある。ここに立ち寄り、狙ってはいたのだが先ほどの赤テントでは売っていなかったものを物色すると、果たしてそれはあった。キュウリである。
 笑いたければ笑え。私はホントに食べたかったのである。キュウリと同時にマヨネーズも購入した。それが入ったビニール袋を持って車に戻ると、それを見たY崎さんが破顔一笑、もう爆笑しながら言った。
「わはははは!そんなもんまで買ってきたか!?でも、島の中じゃあ、それが一番のぜいたく品だぜ!」
 断っておくが普段の私はマヨネーズなど殆んど口にしない。最近ではお好み焼きやタコヤキ等を買う時でも「マヨネーズはどうしますかぁ?」などと訊かれるが、私はそれを断っている。しかし、マヨネーズの味そのものは嫌いなものではない。そしてこんな食生活を送っていると、洋風のコッテリした味をあじわいたくなるのである。
 販売されていたキュウリは、さらに有難いことに私の好きな四葉(中国読みでスイヨウ)系のもの。イボイボがたくさんあり、皮が薄くてパリポリとした軽い歯ざわりの、古い品種のキュウリである。やや細くて短いキュウリが3本1パックで200円。相当に高い。が、そんなことを言っていられなかった。購入した野菜・トマトジュースとキュウリを宿舎の居室に持ち帰り、早速食する。
 口の中でキュウリがパリンと軽い音を立てて砕け、独特の清涼感と特有の香りが口中に広がり、鼻腔を突き抜けていく。それを引き立てるかのようなマヨネーズ。まるでキュウリのイボのように鳥肌をたてた私はあまりの美味さに脱力し、誠にだらしない笑顔をして、キュウリを食べつづけた。まるでバッタかキリギリスである。
「ウマイ!!」
「は?何食ってんだ?」
「キュウリ。食いたかったんですよぉ〜!」
 その様子を見て、コイツは大喜びで何を美味そうに食っているんだ?とばかりに同室のN橋さんが不思議そうに訊いてきたが、事情を知って苦笑いしていた。そして以後、私は野菜・トマトジュースかキュウリを肴に、酒を飲むようになったのである。そしてトマトジュースが大キライなN橋さんは私の姿を見て苦笑いしながら、『小倉ヨーカン』を肴に日本酒の熱燗を飲む(N橋さんは甘・辛の両党使い。「ポン酒にヨーカン、ウィスキーにチョコレート、ビールのつまみは甘納豆。」が座右の銘。)のだった。
 
 この生活において、私を救ったものがもう一つ存在する。コーヒーである。それもただのインスタントコーヒー『ネスカフェ・エクセラ』という、一般的な顆粒状のものではなく、粉末状でブラックで飲む限りはスプーンなどがいらないが味も素っ気も香りも少ない、これもまた古いタイプのインスタントコーヒーである。そんなコーヒー、野菜みたいな清涼感なんぞないやんけ!と思うだろうが、これにはワケがある。
 私は幼稚園に通園している頃から毎朝のようにコーヒーを飲んでいる。当時は今のようにレギュラーコーヒーなど一般的ではなく、インスタントコーヒーが一般的だった。当然、我が家もそうだった。そして、その当時から飲んでいたのが、このネスカフェ・エクセラだったのである。高校卒業からしばらくたった頃、ある深い事情からコーヒーをブラックで飲むようになり、お湯とカップさえ用意すればよい手軽さからずっとこれである。
 今まで意識したことがなかったのだが、この生活でお湯の入手がままならない状態では例えインスタントコーヒーでも飲むことが出来ない。そして、酒さえプラカップで飲んでいるのである。インスタントとはいえ、コーヒーまで同じプラカップで飲みたくはない。そんな状態だったため、2月も20日を過ぎるまでコーヒーと言えば冷たいかヌルい缶コーヒーだけだったのである。
 そんな折、東京にいるI嵐さんから慰問の品としてリンゴが送られてきた。前回のポンカンと比べて食いにくいのだが、こっちとしてはキュウリにマヨネーズを塗りたくったヤツを喜んでいるくらい(と言っても私だけだが)なのである。生野菜や果物が摂取しにくい環境であるから、ありがたい。我々で分けると同時に、同じ現場で防球ネットの張替え作業(これも元請は同じ)をしている会社の人たちにも分ける。が、長野県中野市のリンゴ農園から直送されたリンゴはなんと34個入り。いくらなんでも7人で34個は多すぎる。ここにはわざわざ皮を剥いて「さぁ、召し上がれ。」と供してくれる優しい女性は存在しない。ここにいるのは、リンゴの皮を剥いてくれと言ったらカッターナイフで剥きだすような連中ばかりである。どうしよう・・・。あまりのリンゴの多さに、施工管理のM本さんは来た段階からの懸念事項を解決をするための道具として、このリンゴを使うことを提案した。
「このリンゴ、いくつか(宿舎の)管理人におすそ分けしてさぁ、ご機嫌とっておきなよ。ちょっとはサービス良くなるかもよ。」
 まあ確かにそうである。人間、キライなものならともかく今が旬、しかも見てくれは悪いが味はピカ一の信州・中野のリンゴである。私は赤く色づいたリンゴを6個、管理人のところへ持っていった。
 効果はテキメンだった。翌日から笑顔満面で接してくるようになり、必要な資機材が送られてくるとわざわざ教えに来てくれるようになった。そして幸運だったのはそれと前後して、宿舎の電気湯沸しポットが新しくなったのだ。当然、古いものは使われなくなったのだが、私はこれに目をつけた。ポットが新しくなった当日の夜、寝る前に尿意を催した私は偶然にもトイレで管理人に出会ったのである。
 これぞまさに天の配材、私は話を切り出した。
「ポット、新しくなりましたね?」
「ああ、前から頼んでたのがようやく届いたんだ。」
「古いやつってどうするんで?」
「ああ、とってあるよ。」
「私ら帰る時に返しますから、古いやつを貸してもらえませんか?」
「ああ、いいよ。」
 やった。タダのリンゴ6個がポットに化けたのである。わらしべ長者も真っ青の話である。こうして湯沸しポットが手に入り、熱湯が自由に使えるとなるとお茶だろうがコーヒーだろうが、それどころかN橋さんの好きな熱燗まで飲むことができる。残るは熱に耐えられる器があればいい。ワンカップ大関でも買ってこようかな?と思っていたら、見つけた。空き瓶を捨てる箱の中に、空のワンカップのビンを発見した。これを回収して洗って使うことにしたのだ。そこまで用意されると今度はN橋さんが動き出した。
 ポットが部屋に設置されお湯が沸いた状態になった翌日、昼飯を食い終わったN橋さんがそそくさと食堂を出て行ったなぁ、と思っていたら手にインスタントコーヒー(ネスカフェ)・砂糖・クリープの入った袋を手にした中橋さんが戻ってきた。近くにある店で買ってきたのである。これで準備は整った。
 ほぼ一ヶ月ぶりに飲むコーヒー、正確にはガラスやセトモノの容器に入った熱いコーヒーである。ウマイ。というか、いつもの、家にいてヒマさえあれば飲んでいるコーヒーの味である。それを飲みきってしばらくした頃、私はある身体の変化に気づいた。
 入手できる胃腸薬をどんなに服用しても拭えなかった胃もたれ感が消え、スッキリとしている。更に時刻が午後3時前(この日は荒天で午後が休みになった。)なのに腹ぺコなのである。確かにここずっと胃の調子が悪く、昼食を残していた。島に渡って以来、今までそんな状態で午後の作業をしてもまるで空腹感がなかったのだが、猛烈な空腹感を覚えたのである。もうハラがグーグー鳴るのである。
 理由は解らないが、とにかく体調が戻ったのである。めでたい。体調が戻れば、あれほどマズいと感じていた食事も案外とイケる。以後、起床してコーヒー、昼は緑茶、夜は焼酎のお湯割りと、快調に流し込むことができるようになったのだった。
 リタイヤ寸前の私を救ったのは、普段内地で生活していれば取るに足らない、野菜ジュースと丸ごとのキュウリ、インスタントコーヒーだったのである。